昨年末に休暇を利用して訪れた琵琶湖東岸地方。近江八幡では、近江商人達の残した美しい古い町並みに感動しました。そして、そこで大変興味をそそられる熱血英語教師の事を知ることになりました。彼の名前はW.M.ヴォーリズ。少し長くなりますが、彼の事を書かせて頂きます。

1880年(明治13年)、ヴォーリズはアメリカ・カンザス州に生まれました。初めは建築家の道を志してコロラド大学に入学しますが、22歳の時にキリスト教伝道の啓示を受けて、2年後にYMCAから滋賀県の近江八幡へ派遣され、滋賀県立商業学校で英語教師として働き始めます。彼の熱意あふれる英語の授業は生徒達の心をつかみ、自主的に開催した課外授業にも大勢の若者達が集うようになりました。

ところが、彼の指導の主旨に「キリスト教の伝道」があったため、昔から仏教色の強いこの地域とは相容れないものが生じるようになり、次第に宗教的な対立が起こってきます。その結果、彼は2年後の契約更新の時に英語教師の職を解かれてしまったのです。

しかし彼はくじけませんでした。彼を慕う多くの教え子達の熱意に応えるためにも、近江八幡に残って教育・伝道活動を続ける決心をします。そして、そうした活動には経済的な基盤が必要と、建築設計会社や輸入会社を設立。さらに、アメリカYMCAのパトロンだったA.Aハイド氏の支援を取り付けて、ハイド氏が経営していた「メンソレータム社」の商品の日本での独占販売権を取得することになったのです。これが今日私達にもおなじみの薬用クリーム「メンソレータム」です。

以後彼は会社経営や伝道活動・慈善活動に邁進し、日本人女性と結婚、日本に帰化しました。昭和20年の日本の敗戦時には、天皇陛下の処遇についてマッカーサーに進言し、天皇制を護る事にも尽力したと言われています。そして昭和39年の彼の死後(83歳)も、その意志は近江八幡の多くの若者達に引き継がれたのです。

彼の死の翌年、彼は近江八幡市の名誉市民第一号となって、今日でも「ヴォーリズさん、ヴォーリズさん」と親しみを込めて呼ばれています。

※なお、彼が「近江兄弟社」という会社を設立して販売を始めた「メンソレータム」は、昭和49年の会社倒産によって販売権を失ってしまいました。その後、販売権は「ロート製薬」に取得されて、今日では「ロート製薬」の下で販売されています。「近江兄弟社」の方は、その後見事に立ち直って新しい商品を開発し、「メンターム」という商標で発売しました。

「メンソレータム」と「メンターム」。私たちは何となく同じものと思って使っていますが、実はこんな違いと深い事情があったのですね。